営業マネージャー会議オブザーブメモ

今日は取引先の営業マネージャー会議に参席させていただいたので、所感をメモしておこう。

経営学的には、すごく使い古された言葉であるが、改めて、ドラッカーの企業家精神というものに思いを馳せる。議題の一つとして、Webサイトのリニューアルというものがあり、なかなか議論が活性化しなかった印象を受ける。これは、会議に出席する(席に出る)ことと、参加する(文字通り、参じて加わる)こととの違いといったレベルの話ではたぶん無いと思っており、むしろ、営業において今となっては不可欠な営業ツールの一つであるWebサイトについて、「私は、その道には明るくないため…」といった発言の遠慮というよりは、発言することで失敗することの恐怖心のようなものがあったのではなかろうかと推察する。

では、何が欠けていたのかということに僕は焦点を移す。このような時、自分自身の思考プロセスや行動様式との差分を考えるのだが、恐らく、その差分というのは興味であったり、日々の日常的に利用するサービスを我が事として考える習慣的要素に違いがあるように思える。例えば、ラーメン屋さんに入った際、当該ラーメンのレシピを推測してみたり、自分だったら、アクセントとしてゴマ油を効かせてみるや、ゆずの皮を少々入れると、口当たりが良くなるのではないかなど、より良い味はどうあるべきかといったことに思いを馳せる。これは、今となっては癖として習慣化されたものだが、たぶん、始まりはどうやったら儲かるのかといった仕組みに興味があったんだろうと過去を振り返る。飲食店に限らず、小売店における販促方法やオペレーションの流れ、店員のシフト(供給体制)が需要に対して過剰感がないかなど、ふと思い起こせば見ているポイントは多岐に渡る。そういうことを常日頃から訓練していると、提供する財・サービスの価値の平均値みたいなものが自身の中で醸成されてきて、いつしか、幾らなら買うかといった対価のことを考えるようになった。なので、たまに一緒に御飯を食べていて、僕が割安または割高といったコスパの話をすると、多くの人が、「石野さん、コスパを気にしますよね。(笑)」との声をいただくことも多々。行動経済学において、消費者は消費者余剰を最大化すべく行動するから、まぁ、僕にとっては当然のことなのだが、これは供給サイドに回った時に、特に重要な能力だと思う。僕らが想像している以上に、お客さんは賢く、価格弾力性というのは商材によっての高低はあれ、必ず存在するからこそ、供給者は常に消費者を意識した値決めというものを実施し、敏感に反応というものを定期的にモニタリングし続けなければいけないと僕は思うのである。

話を戻そう。Webサイトというのは、スマホが普及した昨今において、もはや個人にとっては欠かせない生活ツールの一つとなった。実際、中1になる僕の娘も辞書なんか使わず、iPadを使ってネットで調べ物をする。親や先生が辞書を使えと言ってみたところで、人はより便利なものを利用しようとするのは至極当然の流れだろう。そのような日常生活に身を置くのは、何も僕の娘だけではなく、営業マネージャーも当然のこと。僕たちは1日にいったいどれだけのWebサイトを漂流していることだろうか。その時、これは使える、ここをこうすればもっと便利になる、この業態だとこういう見せ方をした方がよりユーザーフレンドリーじゃね?などと我が事として、日々、考えるか、否か。差分というのは、そういうところに在る。言わば、日々の生活シーンの全てが教材であり、ただでは転ばない精神が、企業家精神を醸成するのではなかろうか。

何も考えずに過ごす24時間よりは、1分でも多く有効的に時間を過ごしたほうが、職能という領域においては、当然、将来の結果は異なるだろう。野球でもサッカーでも、その上手さというものは練習量に大なり小なり比例するのは周知の事実であり、これはビジネスの分野でも何ら変わらないはずである。そこにチャンスがある。今はもはや高度経済成長を支えたような一律的な社会、1億総中流社会なんていう時代ではない。批判を恐れずに申し上げれば、僕は残業時間抑止論に対してNoを突きつけるし、僕はもっと働き、自らの能力を高めたいと考えている。イチロー選手が今月は残業し過ぎたから、今日の自主練は止めておこうなんて言わないだろう。鬼十戒で知られる電通マンは、今の時代には受け入れられないのだから、僕はそれをチャンスと受け取ろう。平均年収1,200万級のウサギ達が一斉に眠りに就くというのなら、ドン亀はここぞとばかりに走るまでだ。職務遂行能力において、僕の方がコスパが高いなら、人々は喜んで僕に毎月100万円以上の対価を支払ってくれるだろう。休みたい人は休めばいいと思うし、僕は自らの成長を追い求めて働くことを選択する。もちろん、休みたいときは休むが、まぁ、社会のルールによって自らの行動に制限をかけてほしくはないね。僕の将来を確かなものとして社会が約束してくれるのなら別だが。

誤解がないように言っておこう。無理は禁物、休みたいときは思いっきり休もう。僕自身、未だにマンガをよく読むし、時間を作れれば映画も観る。本を手にとることもあれば、美術館に足を運ぶことも、スーパー銭湯に行くこともある。リフレッシュの課程でも、また新しい発見もあることを僕は知っている。だから、焦り過ぎて、無理を強いてはいけない。心身を健康な状態に保ちつつ、自らを高めるためのほんの少し背伸びした目標にtryすればいい。心身ともに健康的な状態でなければ、決して良い結果は出ない。そして、失敗は成功の源と古くから言うのだから失敗を恐れずチャレンジしよう。2,000本安打を達成したイチローも言ってたじゃないか、「その裏で、4,000回の失敗が存在した」と。人間は失敗を通じて学びを得るのだから、喜んで失敗し、失敗を悔い、そこから学ぶほうが効率的だ。大事なことは、一歩を踏み出すこと。

日本の総人口が、いよいよ減少に転じた。GDPの8割超を内需が占めるこの国で、僕はただただ恐ろしやと思うわけである。需要と供給の均衡を考える際、年率で約6兆円の需要不足と言われているわけだが、まぁ、その分だけの供給を無くすことを考えるほうが、需要創造を試みるより簡単そうだ。この国では毎年、最低賃金が上がり続けているわけだが、海外に労働シフトできるものがあるんであれば、その方がコスパが高いと判断された場合、否応なしに企業は生きながらえるための舵を切るだろう。そのような時代の流れの中で、怯え縮こまり、何もしないというよりは、その時代の趨勢と向き合い、しっかりと能力開発に時間を投資し、ビジネスというサバイバルを生き抜く技能を習得するほうが正しい行動ではないだろうか。自分が頑張ったかどうかという尺度はあてにならない。ウサギとカメ、アリとキリギリス、結果から見ると、どちらが正しい選択をしたか、多くの人が言い当てられるけれども、自らに不幸な結果が訪れた時、多くの人がその結果を受け入れられないと主張するのは何とも面白い現象だ。

幸か不幸か、僕らはこの時代に産み落とされた。この難しい時代を必死になって生きようとするならば、目を見開き、多くのものを見よう。生きていく術を学ぶための教材は、そこら中に転がっている。それを見ようとしないのは、自らの成長をどこかで止めてしまっているからではないかと僕は考えるのである。この世の中は未知で満ち溢れており、未知を既知に変え、知識と知識を有機的に結ぶことで知恵が生まれる。この記事が、あなたにとって何かを考えるきっかけとなれば幸いである。。

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