国の進化を分かつものは何か?

仕事で度々上海に行く。飛行機で数時間離れた隣の国で、食べ物は洋食や他の料理と比較すれば日本食に近いし、日本人の僕の舌にとっては味も悪く無いように思う。当たり前だが、見てくれも似てる。

しかし、こと暮らしぶりはというと少し色が変わってくる。一言で言えば、ITリテラシーにおいては、中国(上海)の方が国民レベルとして高いと僕は肌で感じる。ITが日常に深く浸透しているのだ。

彼らが主として使用するのはパソコンではなく、スマートフォンやタブレット端末。直感的な操作で、様々なアプリを使いながら自分たちの目的を達成していく。特に目を見張るのは、電子決済サービス。We chat pay や 支付宝と呼ばれる電子マネー決済が盛んで、個人間の商取引(例えばオークションやフリマのようなもの)でも多用されている。恐らく、銀行振込でお願いしますと言えば、怪訝な顔をされるに違いない。

このような生活インフラがあるから、中国の人々は現金決済から電子マネー決済へと生活をシフトする。一般消費者が飲食店を訪れて出すのは、財布ではなく、鞄にしまわれていたスマホなのである。たぶん、ある時期というか、ある程度のシェアが電子マネー決済に達した時、社会が大きく電子マネー決済にパラダイムシフトしたのだろう。いわゆるネットワーク外部性の問題で、事業者は生存競争の中で環境適応せざるを得なくなった。

さて、改めて、我が国の状況。僕は普段取引先のオフィスに向かう際、ICOCAを使って公共交通機関を利用する。近くのコンビニでnanakoまたはEdyでお茶などを買い、ポイントをせかせか貯めている。ファミマに入る時はTカードを持ってないのでJALカードでクレジット決済することもある(マイルの蓄積が2倍だから)。このように、電子マネーは我が国においても流通しているし、国民の平均所得が高いためか、クレジットカード決済も僕らの社会インフラを支える大きな決済手段の一つだ。(中国ではクレジットカード所有率が低く、銀嶺カードとよばれるデビットカードのような仕組みが普及している。)

このように、僕の財布の中の限られた椅子取りゲームの勝者は、クレジットカードが主で、診察券や稀に使うようなポイントカードはカードケースに葬り去られてしまった。そして思う、面倒臭い…。なぜ、スマホに機能をインストールできないのかと常々思う。

さて、2017年9月時点において、電子決済サービスという例を挙げながら日本と中国の暮らしの違いについて見てきた。国民性という言葉を使うと、国民性の定義とはみたいな本質的な議論から外れていきそうで、その説明に追われるのも面倒くさいが、多くの人には、そっちの方が分かりがよさそうだからと断りつつ、あえて言うこととして、国民性の違いだろうと僕はズバ思っている。

リスク回避思考か、リスク包含思考か、という対比軸があったとして、国民の中央値が何処に寄っているかという意味で国民性の問題。日本人は比較的保守的な国民性だと思う。リスクを負うことを極端に嫌うリスクアレルギー体質だ。ゆえに新しい決済手段というものについて、大きな利便性が無ければ、そちらに流れようとはせず、周りが動き始めて少しづつ浸透していく。こと問題が起ころうものなら、槍玉に挙げられるし、我先にとコロンブスみたいになる人は稀で、ガリレオみたいに公の場で地球が回ってるなんて事は口が裂けても言わない、というのは言い過ぎか。だから、規制も消費者保護に寄る。そして、産業が育たず、グローバル競争に出遅れて焦り出すという構図がしばしば散見されるように思うのは、僕だけか。

一方の中国はというと、極めて投資が盛んで、日常でも投資の話が飛び出す。筆者も半年ほど上海で暮らしていたのだが、ただ日本人というだけで一緒にビジネスをやらないかという話を数件いただいた。当然、怪しすぎて丁重にお断りした。僕は日本人だからとw。

僕は何も、日本悲観論を掲げたいのでは無い。この記事のタイトルにもしたように「国の進化を分かつものは何か?」ということに興味があり、ただそれだけである。僕はロストジェネレーションと呼ばれた世代だから、今更、ロストするものは何も無いw。日本人という事に誇りはあるけれども、日本人というフレーズや日本という国に縛られるつもりもない。僕はロストジェネレーションである一方でガンダム世代でもある。地球の引力に魂を縛られた人達というシャア・アズナブルの言葉は相変わらず僕の胸に刺さるが、オールドタイプとニュータイプという新機軸を持ち、ボーダーレス(国境のない)な世界観で自分というものを高めていきたいなと思う。

明日も、通常の人の3倍のスピードで仕事をこなしていきたいと思う。。

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