流されない流れ者

周囲の目ばかりを気にして、言いたい事も言えず、やりたい事もやれない、そういう人たちを前にすると、僕はとても残念な気持ちになります。

周りに流されることを否定し、自らの意思によって何処かへ流れ着くことは、決して悪い事では無いように思います。

今、此処に在る自分というのは、過去の自分が決断し、行動してきたことの延長線上にいるわけであり、それを環境のせいにしたり、会社のせいにしたり、社会のせいにしたりすることはいけません。それがたとえ、どんなに不遇な環境であったとしても。

他人と比べて自分がどうかという尺度に何の意味がありましょう?

自分がどうありたくて、今、この瞬間に不足を感じる現実社会の不満足に対し、何を補い、社会をより良いものへと変革するか、前に一歩を踏み出すかは、すぐ隣の人が前に踏み出したかどうかが前に踏み出す理由になるのでしょうか?

本当は、多くの人たちが、他人は他人で自分は自分だと知っているのに、この社会では、それを実践する人があまり多くないように思います。失敗すること、損をすることで、他人から笑われるかもしれないなどということにとらわれていては大局を見失います。

自身の胸に手を当てて、胸がときめくのならば、それはもう前に進むのに十分な理由だと僕は思うんです。社会を一歩前へ。そういう小さな志の一つ一つが積み重なって、大きなうねりとなって社会を変革するのではないでしょうか。

目の前の不満足は、必ず変えられる。それをやるかどうかは、とどのつまり自分なのだと僕は考えています。

僕は流れ者ではありますが、決して流されて漂流しているのではなく、今此処にいる自分というのは、自らの意思によるものと胸を張って言えます。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です