余計

週末の時間を使って、取引先のオフィスの床貼り替えをやっています。タイルカーペットを剥がして行くと、床上げ材の下に埋もれた配線の違和感も覚え、追加作業が発生する。

オフィス家具の下で体を小さくし、絡まった配線を紐解き、時折、膝なんかをキャビネットにぶつけて心が折れそうになったりしながら、一枚、また一枚と床を新調していく。

「なんで俺が…。」

仕事を長くやっていると、年に数回(数十回か?)、そんな事を思うことが誰しもあるのでしょう。しかし、多くの場合、そのような仕事というのは担当が決まっていなかったり、今日の仕事のように、誰がやるでも無いような仕事であったりするものです。そして、そういった仕事と対峙した時、自分でどのように整理をつけるかが大事なように思います。

オフィスの床を貼り替えたからといって、売上が上がるわけでも無いし、コストが直接的に下がるわけでも無い。しかし、それがいざ終わってみると、どこか清々しい。環境が一変し、少しずつ色褪せていた景色がまた彩りを取り戻したように思えてくる。こうして、働く環境というものが保全され、綺麗なオフィスで働くという人々のモチベーションになるのかもしれません。

余計な事。そう分類される仕事に目を瞑り、自分の仕事では無いとするのは良いが、では、誰がこの仕事を為すべきか。薄汚い環境に長く身を置いていると、心までどこか薄汚れてしまいそうで嫌になる。そういう気持ちの面で、負けそうになる自分を奮い立たせることには意味があるんじゃないかなと、僕は思う。

これは俺の仕事じゃないと言うことは簡単なことだ。その一方で、これは自身の仕事ではないが誰もやらないから僕が引き受けましょうと言ってのけることは、とても気高いことのように思う。

そうやって自分の中で整理し、消化することで、自分の仕事の意義みたいなものを再考しながら、夜な夜な誰もいないオフィスの中で作業をしていました。綺麗な職場に保つことは、結局のところ、自分に打ち克つということであり、やはり、オフィスが綺麗な会社というのは、それだけで十分に意識の高い従業員で溢れた良い会社なのではないかと僕は考えています。

余計かどうか、それを判断するのは利己的な意思とは異なる視点、つまり、客観的な視野をもって、その対象を俯瞰することによって、ようやく見えてくるのでは無いかと思うのです。

「もっと他にやる事があるのでは?」というご質問もあるやもしれませんが、あるっちゃあるけど、それをも度外視して優先度を上げることには、時として、それが僕のこだわりとして人々の胸を打ち、あの人はそういう事を大事にする人だという暗示的メッセージともなり、行動して示すこともまた僕の大事な仕事では無いかというように思うわけです。ですから、他にやることは有りつつも、これもまた、大事な職務として遂行することには、やはり意味があるのだと添えておきましょう。

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