絶対評価か相対評価か?
人事考課にみられるこの問いかけは不毛だ。そんな二極論で結論づけられるほど、人というのは単純ではないし、多くの場合、組織はチームとしての行動と結果が求められるから、人事考課と称して個人のみにフォーカスを充てることに、いささか無理があるように思う。
何十年先、A.I.が人事考課を行う未来なんていうのも満更ではないが、多くの場合において、それらはサポート的に行われるものであって、A.I.に人事考課の全てを担わせるという未来に僕は違和感を覚える。もし、あなたの会社が将来そうなろうとしたならば、それは経営の怠慢である。
この主張は、自身が保守的であろうとする慣性の力学が働いているのかも知れないし、僕のエゴなのかもしれないが。
絶対評価は組織に属する人々に大変受け入れられやすい性質がある。その一つが評価基準の明確化である。近年、注目を集める信用力スコアリングなどは、その一例であろう。金融工学を駆使して、Aさんには、どれだけの与信があるかというのは、その因果のプロセスが統計学的に見えると実に分かりやすく、公平性を担保しているようにも思える。(その基準の重みにどれだけの恣意性が排除されているかは疑問であるし、その論拠は過去の実績なのかも知れないが、リーマンショックに見られるようなブラック・スワンの問題は喉元過ぎれば熱さを忘れるというやつではないか。誰にも未来は言い当てられない。)
では、仮に人事考課がA.I.に置き換えられた時、そこで働く人々の未来はどのように変化しているだろうか?結論から申し上げれば、均質化である。
同じとは言わないが、類似した思考パターンを持つ集団組織に、僕は警笛を鳴らすものである。それゆえ、僕は絶対評価一辺倒の人事考課制度というものに甚だ疑問を呈す者である。そうして、人材の均質化問題が浮上し、改めて、相対評価に脚光が当たる。歴史が繰り返されるように。
当然、相対評価だけで人事考課が行えるかというと、それも無理がある。大なり小なり多くの企業で絶対評価基準が用いられるように、組織の信頼を損なわない程度に、一定の明確な評価基準というものがある程度の重みで存在するのだろう。
つまり、絶対評価と相対評価は表裏一体の補完しあう関係性を持つことで組織の安寧を構築し、保つのだと僕は考える。では、その比重に関する黄金比はあるのかと言われれば、そんなものは無い!人間の感情が曖昧に揺れ動くように、法人の基準もまた曖昧に揺れ動いて当然である。競争環境は常に変化し続ける中で、企業もまた柔軟に変化していかねばならない。自治の形成という観点から、ステークホルダーの最大公約数を常に考え、比重というものをバランシングさせて、その時々の最適性を追求していくのだろう。そうやって、ファミリーの事を想い、考え、頭悩ますことは、人間としてとても健全なことではないか。
一言で言えば、ダイバーシティ。
Yesマンを集めようと僕は考えない。一の目的に集う集団組織を構成する人々の色は、単一であってはならない。より生き長らえることが企業の存在価値ならば、変化に富むバラエティな多様性こそが、組織の生命線だと僕は考えるのである。