予め計画された失敗

失敗には二種類ある。予め計画された失敗と、そうでない失敗の二つである。前者は意図的であり、必然に近い偶発的な失敗であるのに対し、後者は見通しの甘さや詰めの甘さに寄るところが大きいように思う。

予め計画された失敗は、人材育成という面において、時として必要な要素の一つであるように考えている。なぜなら、人は失敗から多くを学ぶから。その仮説は間違っていると経験則から指摘することばかりが正解ではなくて、実際にやらせてみて、失敗を教育計画に織り込んでいくことが正解ということもある。

教育対象者が立案したPlan AをPlan Bに修正して、Plan Bを実行させたとして、結果、成功体験Cを得たとしよう。この時、教育対象者はPlan Aがもし実行されていたなら、結果Dがどうだったかは知らない。教育者は知っているかもしれないが、教育対象者は未確認である。失敗する事で得られる傷の痛みも、傷の深さも、傷が何に影響を及ぼすかも。全ては仮想の中に埋没していく。そして、もしPlan Aが実行されていたならばと考えてくれる教育対象者はごく少数で、成功体験Cの後では、もはや自身がPlan Aを考えたことなど、微塵も思い返さない方がマジョリティ。タチの悪いのは、Plan Aの方が優れてたに違いないといった面従腹背者を誤って育ててしまうこと。

ゆえに、高い確度で失敗しそうで、かつ、致命傷とならない事案であれば、教育対象者にあえて自らが立案した計画を実施させ、失敗をさせることも立派な教育機会であると認識し、予め計画に失敗を織り込むことは人材育成という中長期的観点からは必要なのだと僕は考える。失敗を正しく認識するには、やはり、痛みに働きかけるのが一番だ。そうして、脳に深く失敗を刻み、再発をさせないことや思考力といったものが養われ、また、時としてそれが涙を呑むことの悔しさを知る人間としての厚みをも作り出すように僕は考えるのである。

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