教育

久しぶりに講義をすることになった。オンラインとは言え、大衆の前で何かを教えるというのは何年振りのことだろうか。

親方は弟子に技能を伝承し、集団組織化され、顧客から仕事を受けてサービスを提供し、対価を受け取る。もう何百年も前から世界の国々で行われた、ごく当たり前のことを蔑ろにし、OJTという名の下の教育機会逃避行が行き着いた先にあったものは、見れた景色では無かった。

他人はどこまで行っても他人で自身と交わる事はない。自身の考える普通が、他者にとっての普通ではなく、特別な何かとようやく認識したのは、ほんの数日前のこと。僕には起業するという強い意志があったし、一人で生きていく強さを身に付けたいという信念のようなものがあった。一つ、また一つと本を読み終え、腕試しと言わんばかりに資格試験に挑戦してみたり、そうして過ごした時は幾星霜、確かに僕はサバイバルをする個の力を宿したのだけれども、他者と同じ問題を解いて答え合わせをする時に感じる違和感は、多くの場面で他者と同じ答えに辿り着けないこと。誰もが自発的に本を手に取り、何かを学び、より高い仕事を成し遂げようなんてことは考えないのである。分かってはいたことだが、どこか寂しくもある。

誰かを詰める話じゃないし、自己責任と突き放す話でもない。僕らはチームであり、僕は歳を重ねて、いつしか教える側の立場になったのだ。誰かに僕が教わったかどうかという尺度は意味をなさない。それは、当人の器量の問題だと知る。だから、僕は誰かに何かを教えてみようと思う。

人材育成というのは、いつも費用対効果を測りづらい。そして即効性も多くの場合で無い。ゆえに敬遠しやすい。やった方が絶対に良いのだけど、何を、誰が、誰に対して、どのように教えるのかといった細部においては様々な考えがあって、総論賛成各論反対を招きやすく、組織を一つにまとめることが難しい。また、結果が実ったとして、それは教育者のおかげとは多くの場合でならない。それが問題をより複雑化させる。

教育システムを組織に根付かせることの難しさを知る意味でも、僕は教育の最前線に立ち、教育に力を注ぎ、教育について考えることに僕のリソースを傾けるのである。やるからには、最高の講師を目指したい。

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